ゲームを遊ぶとき、プレイヤーは何を「面白い」と感じているのか、を考察していきます。
前回の記事では曖昧だったソシャゲについても触れたいと思います。
先に言ってしまうと、僕の意見は凡そ以下の記事に依っています:
http://diamond.jp/articles/-/15594?page=6
経済系のゲーム記事にしては珍しく信用のおけるものです。
結論としては、「ゲームは、人生である」ということを言いたいのですが。
まず、ゲームには「努力」と「報酬」という二つの大きな要素がある、というのは変わりありません。
しかし「ゲーム」の大きな特徴は、「努力が失敗する可能性がある」という点です。
ゲームはプレイアブルです。当然です。
だから、努力しても能力が足りなければ失敗します。
仮に失敗したとして、プレイヤーはどうするでしょう?
反省して再挑戦するか、さもなくば投げ出すかのどちらかです。
この時再挑戦すれば、いずれは目標に到達できる可能性があります。
(もちろん余りに能力を超えたことは出来ません――これは絶対に万人受けするゲームがない理由であり、ゲームの哀しい所です)
で、結局努力が実ると、プレイヤーは「努力が報われたのだ!」という達成感を得ます。
この構造が、ゲームの面白さの本質です。(重ね重ね前の記事では失礼しました…)
失敗を重ねて、努力が実ることで、自分の中で達成感が得られる。
これはまさに人生そのものではないでしょうか。
続いてソシャゲについて見てみます。ソーシャルゲームの特徴は、
通常のゲームの「努力」が「課金」に置き換わっていることに加えて、
その努力(課金)が必ず成功すること。
他者との努力(課金)の量の格差だけによって(協力であれ敵対であれ)評価されること。
これらのような点が挙げられます。
課金は嘘をつきません。
課金すれば必ず、敵対であれば優越感、協力であれば連帯感を生み出してくれます。
それが確かめられると、より大きな快楽のためにプレイヤー(?)はますます課金量を増していきます。
字面だけ見てもいかにも「麻薬」のような存在であり、実際そうであるのはよく知られるところです。
まとめます。
本当のゲームとは、人生の如きものである。
人生がそうであるように、失敗を重ねて人は成長する。
そこに無量の喜びを覚えるのが、人生そしてゲームの醍醐味である。
そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
RE: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
その理屈で言うなら、不確実性を持っているガチャはむしろ良心的システムと言えるのでは?SUE さんが書きました: 続いてソシャゲについて見てみます。ソーシャルゲームの特徴は、
通常のゲームの「努力」が「課金」に置き換わっていることに加えて、
その努力(課金)が必ず成功すること。
他者との努力(課金)の量の格差だけによって(協力であれ敵対であれ)評価されること。
これらのような点が挙げられます。
課金は嘘をつきません。
課金すれば必ず、敵対であれば優越感、協力であれば連帯感を生み出してくれます。
それが確かめられると、より大きな快楽のためにプレイヤー(?)はますます課金量を増していきます。
字面だけ見てもいかにも「麻薬」のような存在であり、実際そうであるのはよく知られるところです。
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
鋭い。
仰る通りで、課金は嘘をつかない、と強調したのが不味かった。
引用先の記事にもありましたが、最も大事なのは
「自分自身の成長を実感する」⇔「他者に認められる」
この対比です。必ずしも課金が確実であることは必要なかったですね。
[追記]
しかしソーシャル性を持ったゲームが全て悪であるわけでもないので(ポケモンやどうぶつの森は?)、
はっきりと断じるには引用した記事くらいの分量は必要になりそうです。
そこで別の視点からも見てみます。
ゲームとお金の関係は本来、あくまで「ゲームという創作の対価としてお金を支払う」のが正しいです。
しかしソーシャルゲームにおいては、お金は創作の対価というよりむしろ、快楽を得るための手段です。
ソーシャルゲームで儲けるには、創造性は必ずしも必要ではありません。必要なのは課金を増やす構造です。
この「構造」とやらが、本当に創造的といえるでしょうか?
この手のソーシャルゲームに創造性が乏しいのは今更言うことでもありませんね。
この問題は近年のDLC商法などにも言えることです。
ひとくちに「DLC商法」というと、課金を伴う不健全な商売と思われることが多いです。
そのこともあってか、任天堂が一度DLCを発売する、となると知識のない経済記者は一斉に
「遂に任天堂がソーシャルゲームの前に屈したのか!?」などと報じますがそうではありません。
DLCを購入することで、非購入者と何らかの格差が生じ、それを楽しむようなものは課金と変わりありません。
しかし、あくまで「DLCを一つの創作として認めてもらって、それに対してお金を頂く」(任天堂東京支社長さん直々のお言葉)
のであれば、問題はありません。
そのゲームはゲームとして面白いのかどうか。お金を払う価値があるのかどうか。
そこの判断が必要になってきます。
仰る通りで、課金は嘘をつかない、と強調したのが不味かった。
引用先の記事にもありましたが、最も大事なのは
「自分自身の成長を実感する」⇔「他者に認められる」
この対比です。必ずしも課金が確実であることは必要なかったですね。
[追記]
しかしソーシャル性を持ったゲームが全て悪であるわけでもないので(ポケモンやどうぶつの森は?)、
はっきりと断じるには引用した記事くらいの分量は必要になりそうです。
そこで別の視点からも見てみます。
ゲームとお金の関係は本来、あくまで「ゲームという創作の対価としてお金を支払う」のが正しいです。
しかしソーシャルゲームにおいては、お金は創作の対価というよりむしろ、快楽を得るための手段です。
ソーシャルゲームで儲けるには、創造性は必ずしも必要ではありません。必要なのは課金を増やす構造です。
この「構造」とやらが、本当に創造的といえるでしょうか?
この手のソーシャルゲームに創造性が乏しいのは今更言うことでもありませんね。
この問題は近年のDLC商法などにも言えることです。
ひとくちに「DLC商法」というと、課金を伴う不健全な商売と思われることが多いです。
そのこともあってか、任天堂が一度DLCを発売する、となると知識のない経済記者は一斉に
「遂に任天堂がソーシャルゲームの前に屈したのか!?」などと報じますがそうではありません。
DLCを購入することで、非購入者と何らかの格差が生じ、それを楽しむようなものは課金と変わりありません。
しかし、あくまで「DLCを一つの創作として認めてもらって、それに対してお金を頂く」(任天堂東京支社長さん直々のお言葉)
のであれば、問題はありません。
そのゲームはゲームとして面白いのかどうか。お金を払う価値があるのかどうか。
そこの判断が必要になってきます。
最後に編集したユーザー SUE on 2013年8月12日(月) 14:53 [ 編集 1 回目 ]
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
逆に言うと人生はゲームみたいなものってことですね
ソシャゲはお金を払うことが努力といいますが、普通のゲームではお金のかわりに時間を払っているということだと思います
そうなるとソシャゲはダメというわけではないような気も
そもそもソシャゲの何がダメなんでしょう
普通のゲームに関しての「努力→報酬」もなんとなくしっくりこないような気もします
「ゲームを遊ぶとき、プレイヤーは何を「面白い」と感じているのか」がテーマですね、
例えば対戦するゲームで負け続けてもずっと同じゲームをプレイしてる人もいますよね。それはどうなるんでしょう
他にも「じゃんけん」はおもしろいでしょうか。このゲームに努力の余地はない気がしますが、勝てば楽しいでしょう
努力→報酬の関係だけでは説明するのに足りない気と思います
「ゲーム」というのを市販のゲーム・普通のゲームととらえるならもっといろいろありますね
ソシャゲはお金を払うことが努力といいますが、普通のゲームではお金のかわりに時間を払っているということだと思います
そうなるとソシャゲはダメというわけではないような気も
そもそもソシャゲの何がダメなんでしょう
普通のゲームに関しての「努力→報酬」もなんとなくしっくりこないような気もします
「ゲームを遊ぶとき、プレイヤーは何を「面白い」と感じているのか」がテーマですね、
例えば対戦するゲームで負け続けてもずっと同じゲームをプレイしてる人もいますよね。それはどうなるんでしょう
他にも「じゃんけん」はおもしろいでしょうか。このゲームに努力の余地はない気がしますが、勝てば楽しいでしょう
努力→報酬の関係だけでは説明するのに足りない気と思います
「ゲーム」というのを市販のゲーム・普通のゲームととらえるならもっといろいろありますね
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
対人戦で負け続けても同じゲームを遊ぶのは、いずれ勝つことを目標にしているからではないでしょうか?
あと、報酬のお話は前の記事で取り上げましたがあまり気にしないで頂きたい・・・
あくまで努力をする為の動機、程度にとらえていただきたいです。
純粋に考えて、オールクリアしてもエンディングの無いゲームは、有るゲームに比べて遊ぶ意欲は減少するでしょう
――もちろん、オールクリアという概念が無いなら別ですが。
じゃんけんはいい例ですね。少し考えてみましょう。
じゃんけんで勝つのに必要なのは、全て「運」です。
そこに自分の技術や経験が入り込む余地はないわけです。
だから、自分の成長を実感することもない。
つまり、じゃんけんはコンシューマゲームの目指す面白さは持っていないと考えます。
じゃんけんで「勝って楽しい」というのは、自分の努力の成果によるものではないわけです。
ゆえに、「運」の要素はコンシューマゲームでもいいスパイスにはなりますが、100%依存させてしまうのは面白くありません。
「運ゲー」という言葉は普通ネガティブな意味ですよね?
あと、報酬のお話は前の記事で取り上げましたがあまり気にしないで頂きたい・・・
あくまで努力をする為の動機、程度にとらえていただきたいです。
純粋に考えて、オールクリアしてもエンディングの無いゲームは、有るゲームに比べて遊ぶ意欲は減少するでしょう
――もちろん、オールクリアという概念が無いなら別ですが。
じゃんけんはいい例ですね。少し考えてみましょう。
じゃんけんで勝つのに必要なのは、全て「運」です。
そこに自分の技術や経験が入り込む余地はないわけです。
だから、自分の成長を実感することもない。
つまり、じゃんけんはコンシューマゲームの目指す面白さは持っていないと考えます。
じゃんけんで「勝って楽しい」というのは、自分の努力の成果によるものではないわけです。
ゆえに、「運」の要素はコンシューマゲームでもいいスパイスにはなりますが、100%依存させてしまうのは面白くありません。
「運ゲー」という言葉は普通ネガティブな意味ですよね?
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
逆に努力しないとゲームは面白くないということになりますか?
じゃんけんは運なので、二回・三回と続けて負けたあとに勝っても一回目で勝てたときと感動は同じということですか。
負けたあとに勝ったときのほうがより嬉しく感じませんかね。
演出でここでは確実に二回負けるというのより運だと思ったほうが盛り上がるのでは。
わたしはケイブのシューティングゲームが好きですが、2周エンドのゲームで2周目に一度も行ったことがないヘボプレイヤーです。
いつかぜったい2周目に行ってやるとかは思いません。行けたらいいなくらいは思いますが。
調子が悪いと全然進めないことがありますがコンティニューはしません。
それでもゲーセンに寄る機会があるたびにプレイしてます。
緊張と緩和のバランスとかストレスを解放するタイミングとかゲームの面白さを決定すると言われるものはしばしば耳にします。
運も課金も構成要素のひとつと考えることができるのではないでしょうか。
じゃんけんは運なので、二回・三回と続けて負けたあとに勝っても一回目で勝てたときと感動は同じということですか。
負けたあとに勝ったときのほうがより嬉しく感じませんかね。
演出でここでは確実に二回負けるというのより運だと思ったほうが盛り上がるのでは。
わたしはケイブのシューティングゲームが好きですが、2周エンドのゲームで2周目に一度も行ったことがないヘボプレイヤーです。
いつかぜったい2周目に行ってやるとかは思いません。行けたらいいなくらいは思いますが。
調子が悪いと全然進めないことがありますがコンティニューはしません。
それでもゲーセンに寄る機会があるたびにプレイしてます。
緊張と緩和のバランスとかストレスを解放するタイミングとかゲームの面白さを決定すると言われるものはしばしば耳にします。
運も課金も構成要素のひとつと考えることができるのではないでしょうか。
最後に編集したユーザー ISLe on 2013年8月13日(火) 17:12 [ 編集 2 回目 ]
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
ISLeさんもわざわざコメントありがとうございます。
確かに負け続けた後のじゃんけんで勝つのは嬉しいですよね・・・そんな経験僕にもあります。
ただそれはゲームをした「気になっている」だけでは? 好きですよね、何回負けたしそろそろ勝つだろ・・・とか。
そんな「気がする」だけで楽しい、というのはパチンコだって一緒です。
まあ「気になっている」だけでも本人はゲーム的面白さを感じるのは確かです。
が、わざわざゲームクリエイターが目指すものではありません。
「その気にさせる」ことに徹したゲームなど不要です。大人しく「パチンコなんだ」と言いましょう。
冷静に考えれば運でしかないのは確かですし、結局ゲームの目指すそれとは性質を異にすると思います。
でも「運」は100%依存するのがいけないのであって、一部に適用するのはむしろ必要だと考えています。
ちょっと話はずれますが、野村克也曰く「野球は確率でしかない。一番確率の高い方法を選んで妥協する」と。
同じランダムでも、何らかの法則っぽいもの(質の低い乱数を使うのは別の話ですが)とか、
自分の操作によって少しずつ変化したりだとか、状況によって最適解が変化したりだとか、
そういうのを見極めて「一番確率の高い方法を選ぶ」のは紛れもなく努力の成果だと思います。
試行回数が増えればその成果も顕著に見えるでしょう。
目標について。
2周エンドのゲームで2周できないなら、それはそれで良いのではないでしょうか。
同じシューティングでも、最初期のグラディウスは何周でも出来ましたし、必ずしも「エンディング」と呼ばれるものが
最終的な目標とは限りません。特にアケゲーやネトゲの場合は。
そういう場合は一周目のボスをより速く倒したり、スコアを上げるのが目標になるのではないでしょうか。
きっとそうなると思います。
それは違う、と言うのならば、きっと僅かにある「緊張感」がゲーム的面白さの根拠になっていると思います。
いくら努力が要らなくなったと感じても、残機を失う確率がある限り、無意識の内にそれを減らす「努力」をすると考えます。
いや、そうでもないんだ。弾幕を避けるとか、音ゲーなら音が鳴らせるのが単純に楽しいんだ。向上や努力のするしないじゃない。
というなら、それでも分かります。が、飽きませんかね。
ここにはゲーム的面白さと、演出を眺めて快感を得ることの違いがあります。
(これはパチンコとゲームのもう一つの差でもありますね)
だからせめてスコア詰めくらいはした方が楽しいと思いますよ。
それに、「最初から」何の努力もなしに遊べるゲームはゲームと呼べませんよね?
たとえば弾幕シューティング完全未経験でも遊べるように残機無限にしました、なんてのはゲームでなくてビューワーです。
だからゲームには努力せねばならないところが絶対必要です。
結局、
演出を見たりして楽しむのはまた別に楽しさがあるのでそれはそれでいいと思いますが。でもそれだけならビューワーだっていいんですよ。
確かに負け続けた後のじゃんけんで勝つのは嬉しいですよね・・・そんな経験僕にもあります。
ただそれはゲームをした「気になっている」だけでは? 好きですよね、何回負けたしそろそろ勝つだろ・・・とか。
そんな「気がする」だけで楽しい、というのはパチンコだって一緒です。
まあ「気になっている」だけでも本人はゲーム的面白さを感じるのは確かです。
が、わざわざゲームクリエイターが目指すものではありません。
「その気にさせる」ことに徹したゲームなど不要です。大人しく「パチンコなんだ」と言いましょう。
冷静に考えれば運でしかないのは確かですし、結局ゲームの目指すそれとは性質を異にすると思います。
でも「運」は100%依存するのがいけないのであって、一部に適用するのはむしろ必要だと考えています。
ちょっと話はずれますが、野村克也曰く「野球は確率でしかない。一番確率の高い方法を選んで妥協する」と。
同じランダムでも、何らかの法則っぽいもの(質の低い乱数を使うのは別の話ですが)とか、
自分の操作によって少しずつ変化したりだとか、状況によって最適解が変化したりだとか、
そういうのを見極めて「一番確率の高い方法を選ぶ」のは紛れもなく努力の成果だと思います。
試行回数が増えればその成果も顕著に見えるでしょう。
目標について。
2周エンドのゲームで2周できないなら、それはそれで良いのではないでしょうか。
同じシューティングでも、最初期のグラディウスは何周でも出来ましたし、必ずしも「エンディング」と呼ばれるものが
最終的な目標とは限りません。特にアケゲーやネトゲの場合は。
そういう場合は一周目のボスをより速く倒したり、スコアを上げるのが目標になるのではないでしょうか。
きっとそうなると思います。
それは違う、と言うのならば、きっと僅かにある「緊張感」がゲーム的面白さの根拠になっていると思います。
いくら努力が要らなくなったと感じても、残機を失う確率がある限り、無意識の内にそれを減らす「努力」をすると考えます。
いや、そうでもないんだ。弾幕を避けるとか、音ゲーなら音が鳴らせるのが単純に楽しいんだ。向上や努力のするしないじゃない。
というなら、それでも分かります。が、飽きませんかね。
ここにはゲーム的面白さと、演出を眺めて快感を得ることの違いがあります。
(これはパチンコとゲームのもう一つの差でもありますね)
だからせめてスコア詰めくらいはした方が楽しいと思いますよ。
それに、「最初から」何の努力もなしに遊べるゲームはゲームと呼べませんよね?
たとえば弾幕シューティング完全未経験でも遊べるように残機無限にしました、なんてのはゲームでなくてビューワーです。
だからゲームには努力せねばならないところが絶対必要です。
結局、
といえば、「ゲームとしては」面白くない、となります。ISLe さんが書きました:逆に努力しないとゲームは面白くないということになりますか?
演出を見たりして楽しむのはまた別に楽しさがあるのでそれはそれでいいと思いますが。でもそれだけならビューワーだっていいんですよ。
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
すごろくやトランプの神経衰弱はゲームではないということになりますね。
いまは怒首領蜂大復活がいちばん好きなのですが、たいてい1周エンドは行けます。
そもそも2周目に行く条件を知りませんが。
得点は気になりません。コンボが切れても気になりません。
単純にプレイするのが楽しいです。
自分のプレイで見れるところまで見るのが楽しいです。
調子が悪くて1周できなくてもゲームが面白くなくなったりはしないですね。
むしろそういう好不調があるからこそ楽しいのだと思います。
スコア詰めるようにして遊んでいて、途中で確実に以前より低い得点だと分かったときはどうするんですか?
不意にミスって筐体を蹴っ飛ばしたりプレイ途中で筐体を離れたりするひとをけっこう見掛けます。
いままで楽しく遊んでたゲームがたまたまミスっただけで面白くないゲームになってしまうんですね。
わたしには分からない感覚です。
わたしは周りでランキングとか盛り上がると逆に冷めてしまいます。
ディズニーランドは、何度行っても基本的にアトラクションの内容は変わりませんが、何度も繰り返し足を運ぶお客さんが絶えませんね。
パレードの映像がテレビで流れまくっているのに、どうして出掛けるひとがたくさんいるのでしょうね。
わたしはプレイしていない時間が期待を高めるような普遍的で持続的な面白さもあると思います。
いまは怒首領蜂大復活がいちばん好きなのですが、たいてい1周エンドは行けます。
そもそも2周目に行く条件を知りませんが。
得点は気になりません。コンボが切れても気になりません。
単純にプレイするのが楽しいです。
自分のプレイで見れるところまで見るのが楽しいです。
調子が悪くて1周できなくてもゲームが面白くなくなったりはしないですね。
むしろそういう好不調があるからこそ楽しいのだと思います。
スコア詰めるようにして遊んでいて、途中で確実に以前より低い得点だと分かったときはどうするんですか?
不意にミスって筐体を蹴っ飛ばしたりプレイ途中で筐体を離れたりするひとをけっこう見掛けます。
いままで楽しく遊んでたゲームがたまたまミスっただけで面白くないゲームになってしまうんですね。
わたしには分からない感覚です。
わたしは周りでランキングとか盛り上がると逆に冷めてしまいます。
ディズニーランドは、何度行っても基本的にアトラクションの内容は変わりませんが、何度も繰り返し足を運ぶお客さんが絶えませんね。
パレードの映像がテレビで流れまくっているのに、どうして出掛けるひとがたくさんいるのでしょうね。
わたしはプレイしていない時間が期待を高めるような普遍的で持続的な面白さもあると思います。
最後に編集したユーザー ISLe on 2013年8月13日(火) 23:12 [ 編集 2 回目 ]
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
すごろくの類は、古くから博打にも用いられるように、パチンコのような、ゲームではない遊びでしょう。
神経衰弱は、仮に出た札をメモってもいいならゲームとは呼べないのではないでしょうか。
>好不調があるから楽しいのだと思います。
僕もそうだと思います。なんだか今回は上手く行かなかったけど、次は出来た。
というのは面白さですよね。
筐体を蹴っ飛ばしたりするのはモラルの問題だとしておいて、
たまたまミスっただけでつまらなくなるのは、要は「挫折」ですよね。
「挫折」して、投げ出すのは勝手です。ですが、そこから立ち直るのが面白さであり、
また、そうさせるデザインが、ゲームクリエイターの腕のみせどころでもあります。
ISLeさんは細く長くゲームを楽しんでおられるので、挫折を感じることもない、ということでしょう。
ディズニーランドはまた別の話になりそうですね。
あれは単純に総合芸術だと言えそうです・・・あまり深く考えてないので適当ですが。
アトラクションも一部を除いてはゲームっぽさすらありませんし、その辺は自分には手に負えません。
プレイしていない時間が期待を高めるということは、例えば音ゲーのイメトレをする時などは僕にも感じられます。
しかしこれはあまり普遍的とも言えない。
そういう面白さは、主に演出に起因するのだと考えられます。そう考えればディズニーの話とも上手く折り合いがつきますね。
つまり、そういう持続的な面白さは、芸術としてのゲームの演出等に魅せられた結果なのだと。
うまく説明になっているか分かりませんが、僕の意見はこうです。
神経衰弱は、仮に出た札をメモってもいいならゲームとは呼べないのではないでしょうか。
>好不調があるから楽しいのだと思います。
僕もそうだと思います。なんだか今回は上手く行かなかったけど、次は出来た。
というのは面白さですよね。
筐体を蹴っ飛ばしたりするのはモラルの問題だとしておいて、
たまたまミスっただけでつまらなくなるのは、要は「挫折」ですよね。
「挫折」して、投げ出すのは勝手です。ですが、そこから立ち直るのが面白さであり、
また、そうさせるデザインが、ゲームクリエイターの腕のみせどころでもあります。
ISLeさんは細く長くゲームを楽しんでおられるので、挫折を感じることもない、ということでしょう。
ディズニーランドはまた別の話になりそうですね。
あれは単純に総合芸術だと言えそうです・・・あまり深く考えてないので適当ですが。
アトラクションも一部を除いてはゲームっぽさすらありませんし、その辺は自分には手に負えません。
プレイしていない時間が期待を高めるということは、例えば音ゲーのイメトレをする時などは僕にも感じられます。
しかしこれはあまり普遍的とも言えない。
そういう面白さは、主に演出に起因するのだと考えられます。そう考えればディズニーの話とも上手く折り合いがつきますね。
つまり、そういう持続的な面白さは、芸術としてのゲームの演出等に魅せられた結果なのだと。
うまく説明になっているか分かりませんが、僕の意見はこうです。
最後に編集したユーザー SUE on 2013年8月13日(火) 23:35 [ 編集 1 回目 ]
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
すごろくが博打に使われていたとは初耳ですが、そうなるとテーブルトークRPGもゲームではないということになりますね。
成功失敗の判断はすべてダイスの出目という運だけで決まりますからね。
レベルアップのルールもありますがあまり使わないし。
ビジネスモデルの違いに優劣を付けようとするのは意味がないと思いますけど。
構造で比較すれば、課金=努力なので、課金を否定するということは努力を否定するのと同じことですよ。
実際にプレイヤーに一定の努力を強いてきた結果がいまのゲーム業界だと思います。
安易に結果で努力を釣ろうとして努力そのものが面白くなる構造を作ろうと考えるひとがほとんどいなかったし、努力に見合う報酬が得られないと多くのユーザーが思うようになった。
SUEさんは報酬の内容が達成感に影響を与えるとは思いませんか?
ゲームプログラミングが面白いと思うひとは、ゲームプログラミングの勉強が辛いでしょうか。
勉強が楽しくてたまらないときに、すごく努力していると考えるでしょうか。
確かにわたしは細く長くゲームを楽しむタイプだと思います。
RPGでも時間をかけてゆっくり進めますしね。
わたし以外にも失敗はしたくないと考えるユーザーは多いのではないでしょうかね。
ゲームは娯楽なのですから。
成功失敗の判断はすべてダイスの出目という運だけで決まりますからね。
レベルアップのルールもありますがあまり使わないし。
ビジネスモデルの違いに優劣を付けようとするのは意味がないと思いますけど。
構造で比較すれば、課金=努力なので、課金を否定するということは努力を否定するのと同じことですよ。
実際にプレイヤーに一定の努力を強いてきた結果がいまのゲーム業界だと思います。
安易に結果で努力を釣ろうとして努力そのものが面白くなる構造を作ろうと考えるひとがほとんどいなかったし、努力に見合う報酬が得られないと多くのユーザーが思うようになった。
SUEさんは報酬の内容が達成感に影響を与えるとは思いませんか?
ゲームプログラミングが面白いと思うひとは、ゲームプログラミングの勉強が辛いでしょうか。
勉強が楽しくてたまらないときに、すごく努力していると考えるでしょうか。
確かにわたしは細く長くゲームを楽しむタイプだと思います。
RPGでも時間をかけてゆっくり進めますしね。
わたし以外にも失敗はしたくないと考えるユーザーは多いのではないでしょうかね。
ゲームは娯楽なのですから。
最後に編集したユーザー ISLe on 2013年8月14日(水) 16:23 [ 編集 4 回目 ]
Re: そのゲームが面白いのは何故か?改訂版
あ、なんか大きな勘違いをしてましたね・・・これは失敬。
すごろくは選択肢がある限りちゃんとしたゲームです。済みません。
TRPGはどうなんでしょう? プレイレポートを読んだことはありますが、プレイアブルな要素はしっかりあるように思いました。
僕としてはビジネスモデルに優劣をつけることはアリだと思っていますが、世間的にはどうなんですか?
ソシャゲ・・・だけ矢面に立たせるのは不味いので、課金の源流でもある一部のネトゲとか、一部のアケゲーでは、
まっとうな商売をしているようには僕には思えません。
それと構造的な比較の話は一旦置いていただきたい。これは本当に申し訳なく思っています。
課金することがゲームで努力することといかに違うかは、これ以上は引用先の記事に譲りたいと思います。
力不足を露呈してしまい僕としても残念です。
>安易に結果で努力を釣ろうとして
それはそうだと思います。結果・・・主に演出の類ですが、こればかりに拘泥した結果が「いまのゲーム業界」ですね。
「結果・報酬・目的」は存在する前提としても、そればかり追求するのは非常に不味いことですね。
それより何より大事なのは、ISLeさんの仰る通り、「努力そのものが面白いと感じる構造」です。その通りです。
演出に開発費を掛けるだけでは絶対に質が上がらないもの。
これはまた深い問題ですが、そこを追い求めるのがクリエイターの責務ですよね・・・
そうか確かに、報酬なんて最悪プレイヤーが(努力の可否を)確認できる程度あればいいんですよね。
それよりも、プレイヤーにもっと深いレベルで努力してもらうようにすること。
別に強制するわけではないですね。だってゲームにそんな時間を割ける人ばかりでもないので。
努力が実るという実感から、努力することが楽しい、という感覚へ。
それは決して報酬で釣った安易な快楽ではあってはならず、もっと高次元なものなのでしょうね。
仰るように「勉強が楽しくてたまらない」、みたいな。
しかし厄介なのは両者ともに「楽しい」という言葉一つで表現できてしまうことだと思います。
どちらが尊いかは言うまでもないことです。
ISLeさんのおかげで大分深いところまで考察できたような気がします。
まだツッコミどころあるのであれば是非お願いします。
すごろくは選択肢がある限りちゃんとしたゲームです。済みません。
TRPGはどうなんでしょう? プレイレポートを読んだことはありますが、プレイアブルな要素はしっかりあるように思いました。
僕としてはビジネスモデルに優劣をつけることはアリだと思っていますが、世間的にはどうなんですか?
ソシャゲ・・・だけ矢面に立たせるのは不味いので、課金の源流でもある一部のネトゲとか、一部のアケゲーでは、
まっとうな商売をしているようには僕には思えません。
それと構造的な比較の話は一旦置いていただきたい。これは本当に申し訳なく思っています。
課金することがゲームで努力することといかに違うかは、これ以上は引用先の記事に譲りたいと思います。
力不足を露呈してしまい僕としても残念です。
>安易に結果で努力を釣ろうとして
それはそうだと思います。結果・・・主に演出の類ですが、こればかりに拘泥した結果が「いまのゲーム業界」ですね。
「結果・報酬・目的」は存在する前提としても、そればかり追求するのは非常に不味いことですね。
それより何より大事なのは、ISLeさんの仰る通り、「努力そのものが面白いと感じる構造」です。その通りです。
演出に開発費を掛けるだけでは絶対に質が上がらないもの。
これはまた深い問題ですが、そこを追い求めるのがクリエイターの責務ですよね・・・
そうか確かに、報酬なんて最悪プレイヤーが(努力の可否を)確認できる程度あればいいんですよね。
それよりも、プレイヤーにもっと深いレベルで努力してもらうようにすること。
別に強制するわけではないですね。だってゲームにそんな時間を割ける人ばかりでもないので。
努力が実るという実感から、努力することが楽しい、という感覚へ。
それは決して報酬で釣った安易な快楽ではあってはならず、もっと高次元なものなのでしょうね。
仰るように「勉強が楽しくてたまらない」、みたいな。
しかし厄介なのは両者ともに「楽しい」という言葉一つで表現できてしまうことだと思います。
どちらが尊いかは言うまでもないことです。
ISLeさんのおかげで大分深いところまで考察できたような気がします。
まだツッコミどころあるのであれば是非お願いします。