一応、お約束の言葉ですが、ここで書く内容は、あくまで私個人の見解であります。そして、私は法学部生とはいえ法律の素人であるのは間違いありません。もし読者の行為が、もし裁判などに発展して、私の見解と異なる判決が出て読者が不利益を被った場合でも、私は一切の責任を取りませんので悪しからず。
ではまず、問題の所在を確認しておきますが、事例は大体こんな感じです。
- まず、Aさんが著作物甲を作成します。
- 次に、BさんがAさんの許可を得て甲の翻訳乙を作成します。
- その後で、CさんがAさんの許可を得て別に甲の翻訳丙を作成します。
(*)著作物の複製とは、「既存の著作物に依拠し、その内容及び形体を覚知させるに足りるものを再製することをいう」ものと解される(最高裁昭和五三年九月七日第一小法廷判決、民集三二巻六号一一四五頁)
複製権侵害もしくは翻案権侵害が成立するかどうかについて、まず、ある行為が著作権の複製もしくは翻案に該当するかどうかは、判例によると次のようになります。
(ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー事件 控訴審判決)……「複製」とは複製者が著作物の存在、内容を知つていることを前提とし、「複製」の一態様である改作も同様である。したがつて、著作権(改作権)の侵害は、特許権の侵害と異なり、侵害者が著作物の存在、内容を知つていることを要件とする。そうだとすると、既存の著作物と偶然に内容が一致しまたは類似するものを作成しても、既存の著作物の存在、内容を知らず独自に作成した場合は、これを知らなかつたことに過失があるかどうかを問題にするまでもなく、著作権(改作権)の侵害にならないと解するのが相当である。
(平成13年01月23日 平成12(ネ)4735事件東京高裁判決 色・下線は筆者が加筆した。一部修正をしている。)、ある者のある作品が他の者の複製権又は翻案権を侵害しているといい得るためには、その作品が他の者の思想又は感情を創作的に現実に具体的に表現したものと同一のもの、あるいは、これと類似性のあるものであることが必要であるということができる。より具体的に言い換えれば、その作品を著作者が現実に具体的に表現したものと比較した場合、後者中の、著作者の思想又は感情が外部に認識できる形で現実に具体的な形で表現されたものとして、独自の創作性の認められる部分について、表現が共通しており、その結果として、前者から後者を直接感得することができることが必要であるというべきである。
というわけなのですが、そもそも、翻訳の場合、元の原文が同じであるとそこに類似性が生じるのは仕方ないことですよね。となると、既に翻訳が出ている外国語の文章の別の翻訳は出せないのかというと、そんなことはないはずです。実際に、海外の有名な学術書(例えば、K.マルクスの『資本論』など)は、複数の訳が出ていることもめずらしいことではありません。ということは、問題は、「依拠性の有無」なのです。そして、依拠性の有無は、
- ある作品を利用して、それと同一の著作物と感得できるものを作り出すこと。
- その作品の存在を知っていること。
ですから、1から翻訳を作り上げることが必要なのは間違いありません。一部でも拝借すると、その部分については複製とみなされます。なので、必ず原文から日本語を構成する必要があります。問題は、それでも類似した場合はどうなるのかということですね。
それについては、このような判決があります。次の2つの判決文は、同一の事件(『サン・ジェルマン・デ・プレの夜』vs.『サンジェルマン殺人狂騒曲』事件)に対する判決文です。
(平成3年02月27日 昭和59(ワ)11837事件東京地裁判決)複数の翻訳文が存在する場合、基にした原書が同一である限り、互いに他を複製したものでなくとも、内容や用語自体の多くが同一の表現となることは、むしろ当然ともいえるのであり、右の点に同一の部分があるからといつて、それだけで直ちに両者のどちらかが他を複製したものと認めることはできない
(平成4年09月24日 平成3(ネ)835事件東京高裁判決(上の判決の控訴審))……原書が同一である場合には、同一訳語となることは何ら不思議なことではなく、本件訳書においても不自然な点はないとの点についてみると、確かに、一般論としては、同一原書を翻訳した場合、同一訳語が生ずることは十分予想し得るところである…(中略)…本件訳書に即して具体的に検討したところによれば、本件訳書と控訴人翻訳原稿の前記一致箇所が、当然の一致又は偶然の暗合として理解することは困難……
……控訴人翻訳原稿と被控訴人【A】の本件訳書とは、右両者の翻訳に対する基本的態度の根本的な相違を反映して、訳文の基本的構造、語調、語感を大きく異にしているものであり、かかる相違は、その基本的性格の故に、控訴人翻訳原稿に依拠したと推認される部分的訳語、訳文の存在を考慮しても、これによって何らの影響を受けるものではないことは、前記具体例の対比をみれば明らかというべきである。
してみると、本件訳書には、個々の訳語、訳文において、控訴人翻訳原稿に依拠したと推認するのが相当な部分があるとしても、訳書全体を対比するならば、右の依拠した部分は、両訳文間の基本的構造、語調、語感における大きな相違に埋没してしまう結果、本件訳書が控訴人翻訳原稿を全体として、内容及び形体において覚知せしめるものとまではいえない……
というように、必ずしも複製権の侵害にならないというわけではないのですが、全体として大きく相違があると考えられるならば、2つの翻訳は互いに別々に翻訳されたと判断されると考えてよさそうです。一方で、翻案権の問題ですが、「原文から日本語訳に翻訳した際に生じた独創性」を感得させるに至らない限り、この問題もクリアされたと考えられると思います。
(しかしまぁ、判決文とは読みにくいものだなぁ… こんなこと法学部生が言ってちゃダメなんだろうけどな…)